審神者日和

とうらぶから刀剣鑑賞にハマった審神者ナカアキのブログ

【2016年11月5日】大覚寺 秋季特別名宝展【京都遠征 前編】

 この記事は2016年11月5日、大覚寺京都府京都市・嵐山)で開催中の『秋季特別名宝』で公開されている太刀 銘 □忠(薄緑、膝丸)を観賞した際のレポートです。また、11月5・6両日の京都刀剣巡り(遠征)の前編という位置づけとなります。6日のレポート(後編、後日公開)もあわせてご覧いただけると幸いです。

 

 嵐山は京都市北西部の観光地で、桂川の流域である西京区右京区嵯峨、特に渡月橋周辺を指しています。ちなみに、かの「平等院鳳凰堂極楽鳥の舞」の平等院宇治市なので、真逆の方向となります。このネタ、ここの読者層で分かる方どれくらいいるんだろう。

 大覚寺は嵐山の街並みより北のはずれ、北嵯峨と呼ばれる地区に位置しています。

 

 

 

 旧嵯峨御所大覚寺は、その名の通り皇室との縁が深く、建築物や庭園には宮廷のような風格が漂う寺院となっています。開基は古く平安時代初期、嵯峨天皇離宮嵯峨院)に弘法大師空海五大明王を安置する堂を建て修行を行ったのが起源とされています。嵯峨天皇崩御して後、皇女の正子内親王大覚寺と改め、嵯峨天皇の孫である恒貞親王を開山としました。

 

 時代が下って徳治2年(1307年)、後宇多天皇が出家し法皇となり大覚寺院政を行いました。大覚寺統、いわゆる南朝と称される皇統です。元中9年(1392年)には南北朝の講和が行われますが、その後なんやかんやあり、応仁の乱でほとんどの堂宇を焼失。天正17年(1589年)以降ようやく寺の再建が始まり、寛永年間にほぼ寺の景観が整ったそうです。

 

www.daikakuji.or.jp

 

 

 今回の特別名宝展「大覚寺のみほとけ」は、前述の五大明王像や、その丁寧な作りから「基準作」と称される愛染明王坐像、曼荼羅など、普段は非公開の宝物を多数展示するとのこと。その中で、大覚寺に伝えられた薄緑(膝丸)を含む大覚寺伝来の太刀2振が展示されています。

 

 膝丸と呼ばれる太刀の来歴は諸説あり、『平家物語』には源満仲の命で髭切と揃いで造られた二尺七寸の太刀とされています。その後、ゲーム内でそれとなく描写されてる通り名前を次々と変えました。薄緑とは源義経が付けた名前ですな。義経公が兄・頼朝と仲違いした際、兄との関係修復を祈願して薄緑を箱根権現に奉納したのですが......

 

 その後薄緑は、箱根別当(要は寺院の長のこと)行実から曾我五郎時致に渡され、『曾我兄弟の仇討ち』(※)を経て頼朝公の下に渡ったとされています。

赤穂浪士の討ち入り、鍵屋の辻の決闘(伊賀越えの仇討ち)と並び称される日本三大仇討ちの一つ。

 しかし、文献または物語により来歴が異なり(曾我五郎に渡ったのは友切(髭切)だった等)、作者も諸説あり、現在に膝丸(薄緑)と伝わる刀剣が複数ある辺りが結構ややこしい。大覚寺に奉納された経緯も詳細はわからず、銘も後述するように一部判読できないため、あえて言うなら伝 膝丸(薄緑)なのでしょうか。鎌倉時代半ばから南北朝時代の興りともとれる大覚寺統(南)と地明院統(北)の分裂がみられるので、頼朝公の下にあったのならどこかで大覚寺に渡った可能性はあるのでしょうね。

 

 

 長くなりましたが、そんな膝丸さんに会いに行ってきましたよ。仙台から伊丹空港までひとっとびした後、まずはモノレールで蛍池駅へ。阪急を乗り継いで嵐山駅を目指します。仙台空港を10時前に発って嵐山に着いたのはお昼過ぎ、便利だなぁ。

 

 

 阪急嵐山駅は渡月橋の南側。大覚寺まで徒歩30分強と結構な距離なので、駅前のカフェで先に腹ごしらえ。地元でも親しまれてるお店なのかな、常連のようなお客さんがチラホラ。

 

 

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 渡月橋を南側から。

 

 連休ではないとは言えさすが秋の京都、嵐山は初めてですが想像以上の人混みでした。紅葉はこれからが本番といった感じかなぁ、仙台よりも気温が高く、むしろ暑いくらいだけど、なかなか風情がありますね。

 ちょうど先週末、嵐山を訪れた刀剣クラスタのレポートをいくつか見かけましたが、ここはちょろっと立ち寄るような地域じゃない... 丸1日か、1泊2日は欲しい! しかし、他に5日中に回りたい場所があったし、何より刀剣鑑賞という目的で来たので今回は大覚寺に絞りました。また行きたいなぁ。

 

 

 

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  大覚寺に到着。入口の建物は明智陣屋、明智光秀の居城・亀山城の一部を移築したものです。11月1日から「嵯峨菊展」が開催されており、境内の至るところに嵯峨の野菊

「嵯峨菊」が飾られていました。花の形が房のようで独特ですね。

 

 

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 なんか食用菊に似たような形のがあったような。

 

 陣屋を出てうぐいす張りの廊下を渡って、最初に入るのが宸殿(しんでん)。寝殿造の建物です。こちらの上がっている格子には、セミの細工が施されています。

 

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  奥に見えるのは五大堂、現在の大覚寺の本堂です。廊下を左に折れて進むと、嵯峨天皇弘法大師等の尊像が安置されている御影堂(みえどう)があります。当日は御影堂内で、高知十六霊場のお砂踏みが行われていました。せっかくなので巡拝。

 

 境内の見どころはまだたくさんあるのですが、このまま展示会場である霊宝館へ向かいます。

 厳かな雰囲気の館内には、平安~鎌倉~室町時代にかけて作成された仏像、曼荼羅図、屏風等、そして中央のケース内に太刀が二振り展示されていました。弘法大師が祈祷した五大明王像(平安時代、明円作)は手を合わせずにいられない程の迫力と温かみを感じました。

 

 さて刀剣ですが、上から見下ろすスタイルなので峰側からもじっくり鑑賞することができました。

 

〇太刀 無銘

 室町時代の作。金梨地菊桐紋散蒔絵鞘糸巻太刀拵(江戸時代)および箱と共に展示。ハバキなし。地鉄は柾目肌できらめいていて、直刃調の刃文。

 

〇太刀 銘 □忠/薄緑(膝丸)

 鎌倉時代。こちらもハバキなしで展示。共鉄(ともがね)、つまり刀身と同じ鉄で造られたハバキを使用しており、それで茎が削れて銘が潰れている(□忠)。よく詰んだ板目肌で、光の加減か地鉄が緑がかって見えました。薄緑とはよく名付けたもんだなぁ、いい肌だと思いました。刃文はゆったりとした互の目に小さく丁子乱れが交じる。また刀身には映りがよく見られ、棟に樋を一本かいていました。

 ゲームでは特二で右腿に〇が描かれているのですが、これは切先の映りを表しているのではという考察があるんですね。私はその逆、茎の下端に光る点を見つけてこれがあの〇だと思い込んでました。今回の展示の向きじゃないとわかりにくいですよね、あの茎の点って。

 じっとりと鑑賞した後、お土産を購入して大覚寺を後にしました。ちなみに薄緑のご朱印帳袋は品切れ...。

 

 

 

 

 

 嵐山に後ろ髪をひかれつつ、次は京都市街地、三条を目指します。向かったのは三条大橋の近く、慈舟山 瑞泉寺です。ここは元々三条河原の中州であり、豊臣秀次公の首塚およびその子女、側室が埋められた「秀次悪逆塚」があった場所に建立された寺院です。真田丸クラスタとして外せなかった...

 

 

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慈舟山 瑞泉寺 ホームページ

 

 ザックリと説明すると、文禄4年(1595年)に関白 秀次は叔父である太閤 秀吉から謀反を疑われて高野山に追放された後(諸説あり)、切腹しました。秀吉公は首実検(くびあらため)した後、三条河原でさらし首にしたといいます。その後、秀吉公は秀次公の子女、側室を合わせ39名を三条河原で処刑しました。通常、謀反等で切腹や斬首することはあっても対象は当人や家臣で、その妻や子女(嫡子であっても)を処刑することはあまりありませんでした。しかし秀吉公は、関白 秀次の係累を徹底的に断絶しようとしています。

 

※秀次事件の解説動画(ニコニコ動画

 この投稿者さまの動画は丁寧でわかりやすくてオススメです。

 

www.nicovideo.jp

 

 北政所(寧)をはじめとする助命嘆願の数々も聞き入れられず、秀次公の一族は公の首の目の前で処刑されました。その様子はただ屠り、捨てるという有様だったようです。処刑された子女の中には生まれたばかりの赤子や、当時まだ嫁入り前だった於伊萬の方(駒姫、最上義光の娘)もいたという。遺体は弔われることなく埋められ、その上に首を収めた石櫃を置き、秀次悪逆塚として見せしめにしました(殺生関白塚、畜生塚、畜妾塚) 。これを哀れんだ慶順という行者が草庵を結び、菩提を弔ったのが始まりとされています。慶順の死後、河原の氾濫で塚が荒廃していたところ、慶長16年(1611年)了以と立空桂叔が幕府の許可を得て瑞泉寺を建立しています。

 

 大覚寺のみほとけを見てきた後だからかな、余計にかなしい。

 

 今回、京都古分化保存協会による非公開文化財の特別公開に伴い、10月28日~11月7日の期間「秀次公縁起」や「瑞泉寺裂(きれ)」等の寺宝が公開されています。が、到着した頃にはすでに16時をまわっており展示は締め切ってました。翌朝、また拝観することに。

 

 

 

 

 夕暮れ時が近づいてましたが、次の目的地 東山へ。粟田口吉光、小鍛冶宗近ゆかりの粟田神社、鍛冶神社を参拝しました。こんな時間だけど、同志とおぼしきお歴々がチラホラ。

 

 

 

 お参りを済ませて帰る途中、こんなものを発見。翌日は龍馬展に行く予定だったのでご縁を感じつつ。

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 夕飯はJR京都駅北、七条の串カツ屋さんにて。地元では結構人気のお店のようですね。いい時間なのもあって客足が絶える様子がまるでない...!

 

 

 

 翌日の花丸6話に御手杵さんが出るようなので、いっぱい刺してもらってきました。こんなに熱いのを頬張るなんてさ、ふふふ。

 

 

  といった辺りで5日はここまで。後編へ続きます。

 

 

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