審神者日和

とうらぶから刀剣鑑賞にハマった審神者ナカアキのブログ

【2015年11月22日】 中鉢美術館イベント第二弾(旧ブログから転載)

* この記事は2015年11月に旧ブログ(Tumbler)に記載したものを転載しております。

 文中の刀剣に関する語句、説明等は当時のまま移しましたので、語法の誤りが散見されるかと思います。ご了承下さい。

 

序文

 これは中鉢美術館(宮城県大崎市)にて開催された、刀剣乱舞-ONLINE-に登場する刀を含めた企画展の参加レポートです。

 同館では今年8月より刀剣乱舞-ONLINE-に登場する刀剣の展示を行っており、刀剣ファンの方々の間で大きな話題となったのが記憶に新しいかと思います。件の企画展は11月3日で一度幕引きとなりましたが、引き続き第二弾として展示刀剣の入れ替えをされるとのアナウンスが…

 「あ、行くしかない」

 以降本文では、「前回とは違うのさ!ちゃーんと計画的に家を出てじっくり観賞を満喫したもんね!」と、退館直後は思っていた在仙審神者のメモ、少しの解説と考察を記していきます。またも長文となりますが、お付き合いいただければ幸いです。

 

 

 

本文

1. 日本刀のルーツ ―大和と東北、そして大陸―

 いきなり大それたタイトルをつけましたがそれは。 

 本日は三連休の中日。家族連れや刀剣ファンの方、そして同志とおぼしき淑女もチラホラ見られるものの、小夜左文字が特別公開された前回ほどの混雑ではありませんでした。ねぇみんなもっと来よう!? 後述するけどむっちゃんとにっかりいるよ!?

 

 …気を取り直して。

 前回ご本尊にかじりついてばかりだったので、順路はじめから解説パネルを熟読していたところ、館長さんに解説していただけました。館長さんには、長時間にわたって丁寧にわかりやすくご解説いただき、本当にありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。

 

 8月8日のレポートでも記したように、現代に伝わる日本刀のルーツとなったのは東北(蝦夷、奥州)の曲がった刀であるわけですが、どうもこれは大和(都)と東北の合わせ技にとどまる代物ではなさそうですぞというお話。

 大和政権の支配下―おおむね西日本を中心とする文化圏において、刃物とは神威あるいは権力の象徴でした。そしてそれらの原型は中国より伝来したとされます。矛(ほこ)や鏡、銅鐸を想像していただければわかる通り、これらは青銅製でした。青銅の文化は中国、朝鮮、日本の西側に広く浸透し、主に祭祀や戦闘に用いられたように思われます。

 一方、東北(奥州)における刃物は「蕨手(わらびて)刀」といい、柄まで鉄製の、というより柄を用いない(共柄)曲がった形をしていました。これらは大和の剣のように祭祀用ではなく、あくまで実用品、生活必需品として製作されてきました。しかし素材は青銅ではなく鉄…。この製鉄技術がどこから伝来したかを伺った際にとても驚いたのですが、なんとこれも大陸伝来。ただし、中国南部(都があった辺り)ではなく韃靼(トルコ)、ロシアおよび中国北東部(端っこ)を経由したというのです。

 アイエエエ!? ナンデ!?都ヲ素通リナンデ!?

 というのも、シルクロード発日ノ本行きには「イラン、インド、中国」と「ロシア」の2つのルートがあったわけですな。中国とロシアの間にはモンゴルが横たわっていたわけ。そしてロシア経由の製鉄技術の日ノ本窓口は、現代でいう秋田の辺りだったという説があります。※秋田についてちょっと頭の片隅に置いていただけると助かります。

 このロシアルートの裏付けとなる研究としては、秋田城周辺より出土したアキナケス剣が挙げられます。日本における鉄文化の伝来に対して、鉄の発祥地とされるペルシャヒッタイト(トルコ)からアルタイ山脈のアキナケス剣、蕨手刀の関わりが示唆されるという記述がありました。こちらはネット検索をかけたところ、このようなブログを見つけました(別サイトへリンクします)。 他には、ヒトJCウイルスによる人類学的研究から、「秋田・青森西部に欧州人との関連性が示唆される」という見解も結びつけてよろしいのでは(先ほどとは別のサイトです)、という辺りも(秋田美人との関連性も指摘されることがある)。

 製鉄技術はわかったところで次は鉄の出所です。東北は鉄の鉱脈が豊富ですが、当時利用されたのはおそらく砂鉄であるとのこと。舞草刀のふるさと北三陸地方では、良質な砂鉄や餅鉄が産出され、これらを銑鉄(純度の高い鉄)を精製したようです。大和政権もこの地を重要視していたようで、源頼朝は奥州平泉討伐後ただちにここを押さえました。その際派遣された千葉氏の末裔のためか、この周辺は千葉さんが多いのだとか。

 

 少々脱線しましたが、これで条件は整いました。坂上田村麻呂による蝦夷地討伐により、奥州の人々は大和政権の支配下に置かれました。当時の大和系の刃物と融合することで「毛抜形蕨手刀」、「毛抜形太刀」そして「太刀」へと変貌したとされます。「毛抜形」の特徴として、柄に透かし状の穴が大きく空いていることが挙げられ、これは東北系の流れを組むものであるようです。これら毛抜形の刀剣も共柄で、使用する際装着する「鍔」は切先側から挿入します(蕨手刀も切先側から)。太刀の場合は柄と分離するので、茎(なかご)のお尻からそうっと…鍔のことだよ?

 

 

2. 奥州鍛冶の位置づけと発展

 蝦夷地討伐の果てに奥州から都へ連れてこられた刀工(俘囚鍛冶)の集団は、労役として刀剣を打つこととなりました。その後、前回のレポートでお話したように出身ごとに刀工集団を形成します。

 舞草系:鬼丸、世安(としやす)森房、幡房(はたふさ)、瓦安(があん)、閉寂(ふさちか)等

 玉造系:諷誦(ふしゅう)、寶次(ほうじ)、貞房、宝寿 等

 月山系:月山、近則、鬼王丸(おにおうまる)等

 そんな彼らの仕事ぶりに対する評価は非常に高く、後年「観智院本」に記述されたされたいわゆる鎌倉末期までの刀工ベスト42には、そのおよそ4分の3に奥州由来の刀工が挙げられたほど。その目録には刀工の名が記載されています。しかし、刀工が打った太刀に自身の銘を切ることが許されない時代もあり、そうした頃は派遣された地名を切ったようです。かの刀工宗近の作に「三条」とだけ切られたものがあるのは、後に作品が優れていることを評価されて「宗近」銘が切られる以前のものであるということが考えられます。なお、宗近の子の一人 吉家(近村とは別)は、蝦夷名「我里馬」銘の作が伝わっているそうです。また閉寂も「トモタ・ヘイ」と記述された文献が残りますが、これは遠江鍛冶を統括した友田氏と「閉」の字を指すようです。また、こうした派遣先による分類の例としては、相模国豊後国薩摩国備前国備中国、大和・山城国(古千手院、三条、平安城、来、大宮)等が挙げられます。

 一方で、大和人、都の人間から差別を受け、蔑みに晒される機会も多かったようです。刀工の名にもよく見られる「鬼」の字からそれを読み取ることができるほか、奥州内外の各地に残る鬼伝説もまた無関係ではないというのです。例えば「桃太郎伝説」で退治された鬼の正体、桃太郎が持ち帰った戦利品、鬼に「金棒」の意味。また、秋田のなまはげの正体、青森県鯵ヶ沢町の鬼伝説など… ぜひ、ご自身でもひも解いてみてください。身近なところ、ご祖父やご祖母辺りからお話を伺ってもおもしろいのでは、との館長さんの言。

 

 

3. 本日の展示刀剣

 というわけで、本日観賞した刀剣から幾つかをピックアップし、説明、観賞した感想、考察などをポツポツと。

 

「太刀 銘 豊後国行平」鎌倉初期

 舞草刀の流れをくむ、どっしりとした印象。太刀 閉寂と同様、ハバキから一寸ほど刃がない部分がある(今回知りましたが、閉寂の該当箇所を「焼き落とし」と呼ぶそうです)。行平は豊後国 英彦山、宇佐八幡周辺に伝わる刀工で、奥州鍛冶の娘を妻に持つ。紀新大夫(鬼神大夫)とも。

 

「太刀 銘 為次作(号 勝青江)」鎌倉初期

 ご存知幕末の人物、勝海舟の佩刀。「私は斬られることはあっても、絶対に人は斬らない」の言葉は、日本刀の持つ精神性を示す言葉と館長さんはおっしゃってました。刀は持ち主の心を写し、刀を美しく保つことで持ち主の心も清く正すことができる。そして刀は守り刀であり「伝家の宝刀」、この刀を抜くような最悪の事態だけは避けるよう振る舞うこと。

 

「太刀 銘 宗近」鎌倉期

 三条宗近本人でなく、その流れをくむ刀工の作とされる。故 内田良平氏 旧蔵。「若い方はわからないよねぇ(苦笑)」…調べました。ううん。

 

なぎなた 銘 九州同田貫上野介 慶長十六年正月吉日」江戸初期

 なぎなたは存在感が大きいよねぇ。ずっしりとした、美しい刀身でした。同田貫肥後国を中心に永禄年間より活躍した刀工の流派。

 

脇差陸奥守吉行」江戸前

 む" っ ち ゃ ん !!!!!1

 …失礼しました。刀身は木目肌、反りが小さくまっすぐで、前回観賞した刀を彷彿とさせます。吉行は陸奥・中村の出身で、後に土佐・高知に移る。今回の脇差は高知の蓮井氏より提供されました。

 

「刀 銘 清光(加州)」江戸前

 き よ み つーーーー!!!!!!1

 同時代とされる陸奥守吉行に比べて軽やかで、刃紋は華やかな印象。しかし清光さんの刀、以前見たものもだけど刃紋の白さが薄い?(という表現が正しいかどうかさて置き…) 清光は加州(金沢)出身の刀工。

 

「刀 銘 上林恒平作(ニッカリ写し)」現代

 あ お えぇぇぇぇぇ!!!!!!!!1

 上林恒平(かんばやしこうへい)氏によるニッカリ青江の写し。どっしりとした刀身に、鎬にまでかかりそうな刃紋。鎌倉期の刀(の写し)としてはずいぶん華やかだなぁというのが印象に残っています。青江は、備中国で鎌倉初期から室町初期にかけて活躍した刀工の流派。ニッカリ青江は古青江(鎌倉中期以前)貞次の作とされる。古青江の後は中青江(暦仁年間~応仁年間)、末青江(応仁年間以降)と続く。ちなみに真柄太刀(熱田神宮所蔵、通称 太郎太刀)は末青江物。

 

「刀 銘 神風 和泉守兼定 慶応二丙寅年三月二十六日」幕末

 8月もかっこよかったけども今日もかっこよかったよ、兼さん!! 刃紋は数珠状?ぽんぽん、ぽぽぽん、といった具合に玉が見える。初代の和泉守兼定美濃国、本作の刀工である11代目は会津藩出身。中でも特に出来栄えの素晴らしい刀には刀工名の前に「神風」がつく。特上があるなんて、さすが兼さん!

 

 

4. おわりに(感想)

 8月、初めて中鉢美術館を訪ねてから3ヶ月余。その間、米沢市の上杉博物館で五虎退さんを観賞したり、結城市で御手杵さんに会いに行ったりした際に、以前よりじっくり注意深く観察できているかな。観賞のポイントを押さえられるなってようになってきたかなと、刀剣を見る心構えが変わったように感じています。一方、今回は刀剣のありのままだけでなく、その背景や成り立ちについての考察、そして刀剣を取り巻く研究の最先端について非常に興味深いお話をいくつも伺うことができました。しかし、今ここを書き起こすのにあたり「ああ、ここについてもう一度伺えばよかった」「これについてもう少し調べたい」というものが次々沸いて… ううー、わかっていたけどやっぱり奥が深い!

 

 こんなレポートですが、どなたかの一助になれば。

 

(転載分ここまで)

 

 こちらは当日の様子をまとめたものです。

togetter.com

 

宮城においでよ。